『天皇の国史』⑦平安時代

はじめに

日本史

本記事はカテゴリー "Intelligence" の記事です。

intelligence の意味は基本的には「知能」や「知性」を意味します。一方、安全保障・軍事の世界においての意味は敵や国際情勢などに関する「情報収集」や「情報分析」の意味を持ちます。

"Intelligence" の前半の意味である「知性」を養うことが最初の一歩です。まずは自分の国の歴史を知り、日本がどんな国で、日本人とは何なのかを理解するところから始めたいと思います。

『天皇の国史(竹田恒泰)』

日本史を学ぶ上で教科書として選んだのがこの本です。

私は竹田恒泰さんの書いた『天皇の国史』を読み、日本の歴史が好きになりました。この本は、「日本人に生まれて本当に良かった〜!」と思わせてくれる1冊です。

ということで、日本の歴史について、『天皇の国史』を教科書として、今さらながら勉強し直しています。下記に過去記事のリンクを掲載しておきます。

今回は第7回ということで、「平安時代」です。

平安時代

平安時代は桓武天皇により794年に平安京に都が移されてから、1185年に源平合戦で平氏が滅亡し、1192年に第82代後鳥羽天皇が源頼朝を征夷大将軍に任命し鎌倉幕府が成立するまでの約400年の期間を指します。

保元の乱(1156年)までの362年間は、地方での叛乱事件は幾度かありましたが、平和な時代が続きました。平安期にこれほど長い普段の平和が続いたのは、実は世界史上他に例を見ません。

丸腰の京都御所

京都御所には、敵の侵入を防ぐお堀や石垣、敵を迎え撃つためのやぐらや見張り台などの設備はありません。そんな無防備な京都御所に歴代天皇は1000年以上もの間、住み続けてきました。

天皇の喜びは国民が幸せになることであり、そのために天皇は日々祈りを捧げる存在です。日本国民はそのことを十分に理解し、天皇を心から尊敬していました。ゆえに、京都御所の塀を乗り越えて、天皇を殺しにいこうとする者は現れませんでした。

平安時代の政治

平安時代は藤原氏による摂関政治から、天皇による親政、上皇による院政に移り、平氏や源氏といった武士の時代へと繋がっていきます。

摂政と関白を独占した藤原北家

藤原北家は自分の娘を天皇に嫁がせることで天皇の外戚となりました。

摂政とは、天皇が幼少か病気あるいは女帝の時に設置され、天皇の全ての大権を単独で代理する極めて重要な官職です。また、天皇が成人すると摂政を置くことが出来ませんでしたので、作られた役職が関白です。

藤原北家はこの摂関を独占します。

ちなみに、藤原北家は近衛家・鷹司家・九条家・二条家・一条家の藤原五摂家の祖です。昭和22年(1947年)に家族制度が廃止されるまで、藤原北家は皇室と政治に深く関わり続けることになります。

荘園の拡大と武士の台頭

奈良時代に墾田永年私財法が定められたことで、荘園という土地の私有が認められるようになりました。これにより、藤原氏を中心とした貴族らが農民を使って開墾に励み、荘園を拡大していきました。

ちなみに、荘園は2種類ありました。

  • 輸祖田:農民や貴族の田んぼ、納税の義務がある
  • 不輸祖田:神社や寺院の田んぼ、租税が免除される

荘園を大量に保有した貴族らは贅沢をするようになり、そのしわ寄せは増税という形で民衆に押し付けられました。貧困に陥った民衆の中には盗賊になる者も現れ、治安が悪化していきました。

力で他所の田んぼを奪ってしまおうとする者たちも現れました。武士が誕生したのもこの頃です。源氏、平氏、藤原氏といった武士が勢力を伸ばしていきました。

藤原氏による摂関政治が続いていましたが、その藤原氏を中心とする貴族が自らの荘園を不輸祖田とすることで、課税を逃れるようになりました。今で言うと脱税みたいなものでしょうか。こうして、政治体制は腐敗していき、公地公民制は崩れていきました。

第71代後三条天皇(1068年~1073年)

後三条天皇によって藤原氏の時代は終焉を迎えます。藤原氏と外戚関係にない後三条天皇は、聖域なき荘園整理を断行し、摂関家の経済基盤を切り崩すことに成功しました。

これにより摂関政治は終わりを告げ、政治体制は新たな段階へと進みます。

白河上皇(第72代白河天皇)の院政

院政とは上皇が天皇の後ろ盾として政治の実権を握る仕組みです。摂関政治では次の天皇は天皇の外戚である藤原氏によって次の天皇が決められましたが、院政では上皇が次の天皇を決定しました。

白河上皇は後三条天皇の政治路線を継承し、荘園整理を断行しました。また、平氏の一族を重用し、自ら武力を保持し院御所(上皇の住まい)の警備に当たらせました。

平治の乱

平治の乱は、後白河上皇(第77代後白河天皇)による院政派の源氏と、二条親政派の平氏との抗争でした。

結果的に平清盛が源義朝を破りましたが、重要なことは、どちらの政治が良いかという決定に関して、源氏と平氏が争ったという事実だと思います。

後三条天皇が平氏を重用し始めた頃から、武士の時代は始まっていたのだと思います。その起点となったのが、奈良時代に定められた墾田永年私財法です。

源平の興亡

平安時代の末期、源氏や平氏が力をつけてきた結果、政治の在り方が大きく変わりました。

後白河上皇が幽閉される

後白河上皇から太政大臣に任命された平清盛でしたが、両者は対立を深め、平清盛により後白河上皇は幽閉されてしまいます。

以仁王もちひとおうの令旨がきっかけ

後白河天皇の皇子である以仁王もちひとおうが発した平氏追討の令旨により歴史が動きました。

この計画は事前に漏れてしまい、以仁王と源頼政は平氏の官軍により追撃されて討ち死にしてしまいました。

しかし、この情報が広まると、源頼朝と源義仲をはじめ各地で挙兵が相次ぎ、源平の合戦が始まりました。

失われた三種の神器

源平の合戦は、壇ノ浦の海上で決戦を迎えました。これが壇ノ浦の戦いです。

この戦いで平氏一門は滅亡しました。殲滅戦の中、満6歳の安徳天皇は三種の神器もろとも、母方の祖母である二位尼時子にいのあまときこに抱かれて入水じゅすい、天皇崩御となりました。

天皇と共に海中に沈んだ三種の神器は、鏡と勾玉は改修されましたが、剣は失われてしまいました。

そして、平氏の滅亡により、武家の力はさらに強まり、長く続く武家政権の時代が幕を開けます。

平安文化

平安時代は国風文化が栄えました。

漢字をくずして日本語の音を表す仮名文字が広く用いられるようになりました。

第60代醍醐天皇の時代には初の勅撰和歌集ちょくせんわかしゅうである『古今和歌集』が作られました。

この時代を代表する文学作品として清少納言の『枕草子』、紫式部の『源氏物語』が挙げられます。清少納言と紫式部は世界最初の女流作家と言われています。