『天皇の国史』④古墳時代

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はじめに

日本史

本記事はカテゴリー "Intelligence" の記事です。

intelligence の意味は基本的には「知能」や「知性」を意味します。一方、安全保障・軍事の世界においての意味は敵や国際情勢などに関する「情報収集」や「情報分析」の意味を持ちます。

"Intelligence" の前半の意味である「知性」を養うことが最初の一歩です。まずは自分の国の歴史を知り、日本がどんな国で、日本人とは何なのかを理解するところから始めたいと思います。

『天皇の国史(竹田恒泰)』

日本史を学ぶ上で教科書として選んだのがこの本です。

私は竹田恒泰さんの書いた『天皇の国史』を読み、日本の歴史が好きになりました。この本は、「日本人に生まれて本当に良かった〜!」と思わせてくれる1冊です。

ということで、日本の歴史について、『天皇の国史』を教科書として、今さらながら勉強し直しています。下記に過去記事のリンクを掲載しておきます。

今回は第4回ということで、「古墳時代」です。

古墳時代(4世紀末まで)

古墳時代は3世紀前半に最初の前方後円墳が現れる頃から、飛鳥に宮都が置かれる592年までの約370年間を指します。この時代に大和王朝が誕生し、日本列島が統一されていきます。

纏向(まきむく)遺跡

奈良県桜井市の纏向遺跡に90メートル級の大型の前方後円墳が短期間のうちに5基作られ、そのうちの1つである纏向石塚古墳は3世紀初頭の築造とされ、今のところ世界最古の前方後円墳です。

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同じ纏向遺跡には箸墓古墳はしはかこふんという前方後円墳も存在します。三角縁神獣鏡さんかくぶちしんじゅうきょうの研究や、国立歴史民俗博物館による分析により、250年頃とすることが通説として支持されています。

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大和王朝の誕生

3世紀に入ると日本列島から戦争の痕跡がなくなり、奈良盆地とその周辺を統治していたヤマト王権は、4世紀末には日本列島の大半を治める大和王朝に発展していました。

なお、考古学的な史料は存在しないため、4世紀の日本について共通の認識がいまだに確立していません。

婚姻による国家統合

大和王朝のすごいところは、戦争を経ずに統合されたということです。世界史で戦争を経ずに数十やそれ以上の国が統一されたのは二十世紀に成立した欧州連合(EU)だけです。

どうして、大和王朝は争うことなく国を統一できたのでしょうか。一言で言うと、「みんな家族になった」からです。

『古事記』では、皇位を継承しなかった者の妃と子孫について、初代から第十二代景行天皇までで163、また第十三代成務天皇から崇峻天皇までで10、合計173の豪族と血縁になったと記述されています。

日本中の有力者は天皇と血縁関係になってしまったのです。大きな戦争を経ずに国を統合するというのは、こういうことだったのです。

日本には奴隷がいない

およそ世界の歴史では、戦争により他国を滅ぼすと、その民を奴隷として使役するものです。こうして、他国を次々と占領していくと、次々と新しい奴隷が最下層に加わり、それを繰り返すことで階級社会が形成されます。

日本では、古墳時代に戦争を経ずして列島が統合されたことで、各地域の伝統や文化は尊重され、奴隷なる者がいませんでした。「一君万民」というのは、平等な民が一君を仰いだ歴史的事実を表した言葉です。

古墳時代(応神天皇以降)

4世紀末から5世紀初頭にかけて皇位にあったと見られる第十五代応神天皇からは『記』『紀』の記述も詳しくなります。以降は各天皇時代に起きた出来事を中心に見ていきます。

歴代天皇の皇位継承図

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仁徳天皇(4世紀末から5世紀前半頃)

「煙立つ民のかまどは賑ひにけり」といった言葉は有名ですね。

仁徳天皇は「聖帝」と称えられ、歴代天皇が規範にすべき天皇とされています。そして、その成徳は、1700年経った現在の皇室に受け継がれています。

仁徳天皇治世では、日本史上最初の大規模工事とされる大阪平野の開発と治水工事が行われ、農業生活が格段に高まったと伝えられています。質素倹約を是とし、その宮殿は飾り気なく、屋根を葺いた芽を切り揃えることもしなかったといいます。

『日本書紀』には次のような逸話が残されています。

仁徳天皇四年の春、天皇が高台から国を見ると、人家から煙が立っていないことに気付いた。民が貧しいからかまどの煙も立ち上がらないのではないかと心配した天皇は「五穀が実らず、民は困窮しているのだろう。都ですらこの様子であるから、地方はもっと困窮しているに違いない」と嘆き「今から三年間、全ての課税と役務を止めて、民の苦しみを和らげよ」とみことのりした。その日以来、宮中では、全てが徹底的に倹約されることになった。衣服と靴は擦り切れて破れるまで新調せず、食べ物は腐るまで捨てず、宮殿の垣が破れても造らず、屋根の芽が外れても葺きかえず、雨の度に雨漏りして衣を濡らし、また部屋から星が見えるほどの有様だったという。
そして、三年の後には民の生活は豊かになった。天皇が高台から国を見ると、しきりに炊煙が立ち上がっているのが見えた。この時、天皇は皇后に「天が君主(天皇)を立てるのは、民のためであり、君にとって民は根本である。だから、民が一人でも飢えるのならば、君は自らを責めなくてはならない」と言った。その頃、諸国の民が、自分たちは豊かになったので、税を納めて宮殿を直さなくては天罰が降ると、税を納めようとしたが、天皇はこれを許さなかった。それから更に三年が経過した治世十年の秋、天皇はようやく課役を命じた。すると、民たちは誰から催促されることもなく、昼夜問わずに力を出し合い、あっという間に新しい宮殿を立てたという。

雄略天皇(5世紀頃)

雄略天皇の時期に支那への朝貢が途絶えました。以降122年間、推古天皇が遣隋使を派遣するまで支那王朝との関係はなくなります。

継体天皇(5世期後半〜6世紀前半頃)

第二十五代武烈天皇は御子が生まれない内に崩御し、近親に皇位を告げる者がいなかったため、皇統断絶の危機に直面しました。

この時、大和豪族たちは越国三国こしのくにみくに、現在の福井県坂井市にいた応神天皇の五世孫(玄孫の子)に当たる男大迹王おおどのおおきみを天皇に立てることを決めました。第二十六代継体天皇が誕生しました。第二十四代仁賢天皇の皇女である手白香皇女(たしらかのひめみこ)を皇后としました。

この頃から、農業に関わる祭祀が盛んに行われる様になりました。春の祈年祭、秋の新嘗祭です。現在でも毎年、宮中では2月17日に祈年祭、11月23日には新嘗祭が行われ、天皇陛下が祈りを捧げられていらっしゃいます。

また、御即位の後の最初の新嘗祭は大嘗祭と呼ばれ、天皇の御即位の中では特に重要な意味のある祭祀とされています。天皇の存在と稲作は密接な関係にあることがわかります。

欽明天皇(6世紀)以降

6世紀に入ると、百済経由で大陸文化を積極的に取り入れていきました。

百済の聖明王が、天皇に釈迦仏の金剛像、仏具、経典を送ったのが仏教伝来といいます。仏教伝来により、これまでと違った新しい文かが起こり、日本の政治に大きな影響をもたらします。

このとき、仏教の崇拝を巡って蘇我氏と物部氏で激しい争いが起きました。崇仏派の代表が蘇我氏、排斥派の代表が物部氏でした。

587年、蘇我馬子は物部守屋の本拠地に攻め入り、争いの結果、物部氏は滅亡し、第三十二代崇峻天皇が即位しました。蘇我氏が全盛期を迎えるところで古墳時代は終わります。

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