『天皇の国史』⑤飛鳥時代

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はじめに

日本史

本記事はカテゴリー "Intelligence" の記事です。

intelligence の意味は基本的には「知能」や「知性」を意味します。一方、安全保障・軍事の世界においての意味は敵や国際情勢などに関する「情報収集」や「情報分析」の意味を持ちます。

"Intelligence" の前半の意味である「知性」を養うことが最初の一歩です。まずは自分の国の歴史を知り、日本がどんな国で、日本人とは何なのかを理解するところから始めたいと思います。

『天皇の国史(竹田恒泰)』

日本史を学ぶ上で教科書として選んだのがこの本です。

私は竹田恒泰さんの書いた『天皇の国史』を読み、日本の歴史が好きになりました。この本は、「日本人に生まれて本当に良かった〜!」と思わせてくれる1冊です。

ということで、日本の歴史について、『天皇の国史』を教科書として、今さらながら勉強し直しています。下記に過去記事のリンクを掲載しておきます。

今回は第5回ということで、「飛鳥時代」です。

飛鳥時代

飛鳥時代は飛鳥に宮都が置かれていた592年から710年にかけての118年間を指します。

300年ぶりに支那大陸を統一した隋という大国が生まれ、日本は遣隋使を派遣して「朝貢すれども冊封は受けない」という独自の外交を再開します。そして、蘇我氏をはじめ豪族を中心とした政治から、「改新の詔」より天皇を中心とする律令国家体制へと進みます。

飛鳥時代の概要

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暗殺された崇峻すしゅん天皇

崇峻天皇は蘇我馬子そがのうまこの後押しによって即位したにもかかわらず、蘇我馬子によって暗殺されてしまいました。

暗殺された理由は崇峻天皇の妃が連(むらじ)である大伴氏の出身で、皇統の担い手としては相応しくないとされたためです。

そして、用明天皇の子である厩戸皇子まやどのおうじ(聖徳太子)の生母は蘇我系でした。蘇我馬子は早い段階から厩戸皇子の卓越した能力を見初めており、そのため、崇峻天皇の暗殺は、厩戸皇子を天皇にするために蘇我馬子が計画したものであると考えられています。

初の女性天皇は推古すいこ天皇

我が国の皇統の歴史において、女性天皇は推古天皇を含めて八方十代(重祚二代)の例が見られます。しかし、女性天皇は一代に限られ、その次は必ず本流に戻すことを常として、女性天皇の子が天皇を継いだ事例はありません。初代から現在の天皇に至るまで、男系の血筋を受け継いでいます。

聖徳太子の新政

近年は、推古天皇ー聖徳太子ー蘇我馬子の三人による協調体制で政治が行われていたとされています。主な政策は3つです。

  • 遣隋使(第1回は600年、第2回は607年、第3回は608年)
  • 朝鮮半島での影響力を保つこと、先進文化を摂取することが目的でした。第2回は小野妹子が派遣され、隋の煬帝ようだいに宛てた手紙の内容は有名です。「日出ずる処の天子、書を日没する所の天子に致す。」支那王朝の皇帝のみが使用できる天子の称号を自ら用いて、本来は「奉る」とすべきところを「致す」としました。

  • 冠位十二階の制(603年)
  • 支那の儒教では、「仁、義、礼、智、信」であるが、冠位十二階は「徳、仁、礼、信、義、智」で、それぞれに大小がありました。日本人の素晴らしいところは、先進文化を輸入する際、そのままではなく、日本流にアレンジして取り入れているところです。「徳」が最も高位の徳目として定められ、順序も支那のそれとは異なります。

  • 十七条の憲法(604年)
  • 神道、仏教、儒教の考え方を取り入れ、役人の心構えと日本の国家像を示しました。従来日本人が大切にしてきた「和の精神」が第一条に書かれています。

    和を大切にし、いさかいを起こさないように心がけなさい。人は集団を作りたがるもので、人格を備えた人は少ない。だから、君主や親に従わず、近隣の人と揉め事を起こすものである。しかし、上の者も下の者も協調と親睦の気概を持って議論すれば、おのずと道理にかなった結論を得ることができ、何事も成就する。(『日本書紀』十七条の憲法第一条、現代語訳)

なお、聖徳太子は推古天皇より先に薨去こうきょされましたが、詳細は『日本書紀』に記されていません。

皇室に姓はない

支那から冊封を受ける国の王は、支那の皇帝から姓を与えられました。日本の大王もかつて「倭」という姓を与えられていたと考えられます。

しかし、日本は冊封体制から抜け出したことにより、大王は自ら性を持たず、氏姓を与える存在となりました。そして、現在に至るまで皇室に姓はありません。

大化の改新

この頃の、蘇我氏の政治から、天皇を中心とした政治に移行する一連の国政改革を大化の改新と呼びます。

乙巳いっしの変

皇極天皇4年(645年)6月20日、この日は高句麗こうくり百済くだら新羅しらぎの使者を迎えて三韓進調の儀式が行われることになっていました。皇極天皇の嫡子ちゃくしである中大兄皇子は中臣鎌足と謀り、儀式の最中に蘇我入鹿を殺害しました。翌日には蘇我蝦夷も自害に追い込まれ、権力の絶頂にあった蘇我氏は、逆臣の汚名を着せられ、以降、完全に没落していきます。

なお、事の詳細について当時のことは分からないことが多く見解は定まっていません。

この時、中大兄皇子は数えで二十歳という若さであったため、三十歳未満での天皇即位は前例がないため、叔父にあたる軽皇子(孝徳天皇)へ皇位が継承されました。

中臣鎌足は後に天智天皇より藤原の姓を授かります。現代まで続く藤原氏の祖です。

皇極天皇から孝徳天皇へ初の譲位

それまで、天皇は終身制でした。譲位により、天皇が自ら後継者を決めることが可能となり、天皇の地位の自立性が確保されるようになりました。

日本で最初の元号

孝徳天皇は日本の最初の元号である「大化」を定め、その年を大化元年としました。

かつて、支那王朝の皇帝は時間の支配者と観念されてきました。元号の制定は皇帝の責務でした。日本が独自の元号を定めたのも、支那王朝の冊封から独立したという日本の意思でした。

改新の詔(646年)

天皇に権力を集中させ、唐を規範とした律令国家を作ることを目指しました。

  • 公地公民制
  • 班田収授法

これにより、戸籍に基づいて口分田が与えられ、死ぬと国に変換することになりました。

「日本」という国号の始まり

日本は日の登る国という意味で、推古天皇の国書に見る「日出づる処」と同じ発想です。また、天照大御神という太陽の性格を持った神を皇室の先祖として仰ぐ我が国にとって、日本の国号は実に相応しいものです。

天智天皇からの皇位継承図

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天智天皇

中大兄皇子は7年間の称政で中央集権化を推し進め、天皇に即位しました。

この時期に、大王がこれまでにない権力を保持するようになり、大王から天皇へ移行していったと考えて良さそうです。

しかしながら、頂点に上り詰めた天智天皇は子供に恵まれず、皇位継承問題が発生しました。

壬申の乱

大友皇子おおとものおうじに味方したのは蘇我氏、中臣氏ら中央の豪族たちで、大海人皇子おおあまのおうじに味方したのは地方の中小の豪族たちでした。

叔父と甥が戦った皇位を争う戦は、およそ1ヶ月の戦闘の後、叔父の大海人皇子に軍配が上がり、大友皇子は自害し。天武天皇が誕生しました。

敗退した側に味方した中央の有力な豪族たちは没落し、天皇に対抗できる豪族はいなくなりました。そのため、壬申の乱によって天皇の権威は一層高まることとなりました。

天武天皇は大臣を一人も置かず、皇親政治を始めます。

『古事記』『日本書紀』

681年、天武天皇は『古事記』『日本書紀』の編纂を命じました。これら書記を編纂した理由は、日本として、外交に通用する正史を持つ必要があったからです。

『日本書紀』は外国語である漢語で書かれ、支那王朝の正史の編纂方法を用いていました。『古事記』は日本語の要素を生かして、音訓混合の独特な文章で日本の歴史を綴りました。

持統天皇

三方四代目の女性天皇です。694年に藤原京(奈良県橿原市)が完成しました。

大宝律令

持統天皇は、軽皇子を即位させて文武天皇が誕生しました。

文武天皇は701年(大宝元年)に大宝律令を定めました。「律」は刑法、令は政治の仕組みを定めた憲法の統治機構、行政法、民法などの要素を持ちます。律令に基づいて政治を行う国家を律令国家と呼びます。

そして、大宝律令の詔書には「日本天皇」と明記され、ここに「日本」という国号と「天皇」という称号を用いることが、法律に明文化されました。

大宝の遣唐使(702年)

我が国が支那に対して初めて「日本」という国号を用いました。大宝の遣唐使後の100年間、日本は冊封を受けることなく、20年に一度程度、遣唐使を送り続けました。

こうして、日本は独自の元号、独自の国号を名乗り、完全なる独立国としての道を歩み始めます。

感想

飛鳥時代は「日本」を名乗り、憲法を定め、国家としての歩みを始める大事な時代だったのですね。

ただ、この時代も残っている情報が少なく、分からないことが多いんだ〜という印象です。

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