『天皇の国史』⑥奈良時代

はじめに

日本史

本記事はカテゴリー "Intelligence" の記事です。

intelligence の意味は基本的には「知能」や「知性」を意味します。一方、安全保障・軍事の世界においての意味は敵や国際情勢などに関する「情報収集」や「情報分析」の意味を持ちます。

"Intelligence" の前半の意味である「知性」を養うことが最初の一歩です。まずは自分の国の歴史を知り、日本がどんな国で、日本人とは何なのかを理解するところから始めたいと思います。

『天皇の国史(竹田恒泰)』

日本史を学ぶ上で教科書として選んだのがこの本です。

私は竹田恒泰さんの書いた『天皇の国史』を読み、日本の歴史が好きになりました。この本は、「日本人に生まれて本当に良かった〜!」と思わせてくれる1冊です。

ということで、日本の歴史について、『天皇の国史』を教科書として、今さらながら勉強し直しています。下記に過去記事のリンクを掲載しておきます。

今回は第6回ということで、「奈良時代」です。

奈良時代

710年に奈良の平城京へ都が置かれてから、794年に桓武かんむ天皇(第50代)によって京都の平安京に遷都されるまでの84年間が奈良時代です。

天武天皇が命じた『古事記(712年)』『日本書紀(720年)』が編纂され、現存する最古の和歌集である万葉集(4,500首以上が収録)が完成したのもこの時代でした。

奈良時代は藤原氏が権力基盤を強くした時代であり、皇室と仏教が近づいた時代でもありました。奈良の大仏は聖武しょうむ天皇(第45代)が国家事業として743年に始めたもので、現代の貨幣価値に換算すると実に約4,657億円という巨大プロジェクトでした。

また、皇室では770年に天武系(第48代称徳天皇)から天智系(第49代光仁天皇)へ皇位が継承されることとなりました。光仁天皇は聖武天皇の娘である井上内親王を妻としていましたので、先祖を同じくする二つの系統が一つに統合した正統な皇位継承でした。

奈良時代の概要図

藤原氏の権力基盤が築かれた

藤原不比等

奈良時代最初に政権の座に就いたのは藤原不比等ふじわらのふひとでした。中大兄皇子なかのおおえのおうじを助けて乙巳いっしの変で蘇我入鹿そがのいるかを暗殺した中臣鎌足なかとみのかまたりの息子にあたります。鎌足は晩年に天智天皇から藤原姓を受け、以来、藤原氏を名乗るようになったのでした。

法律の知識に明るく文筆に優れていた不比等は、大宝律令の編纂では中心的な役割を担い、平城京遷都を推進しました。

また、『古事記』『日本書紀』の編纂にも深く関わり、藤原氏の先祖を重要な神に位置付けました。

天皇の外戚になる

藤原不比等ふじわらのふひとはあの手この手を使って、自らの政権基盤を堅固なもにしていきました。その最たるものは、娘を天皇に嫁がせ、その間に生まれた子供を天皇に即位させることで、自らが天皇の外戚となることでした。

娘の宮子みやこは文武天皇の夫人とし、生まれた息子は首皇子おびとのみこであり、後の聖武天皇となりました。

娘の光明子は首皇子(聖武天皇)の夫人とし、生まれた娘は阿倍内親王あべのひめみこであり、後の孝謙・称徳天皇となりました。

聖武しょうむ天皇の治世

奈良時代は仏教が朝廷の保護を受けて大きく発展した時代でした。唐から招いた鑑真がんじんは東大寺に住んで聖武上皇をはじめ日本の僧や尼を指導し、唐招提寺とうしょうだいじを建てました。

聖武天皇は譲位した後、自ら出家しました。天皇が出家するのは初めてのことでした。当時、天皇は神聖で特別な存在と考えられていましたが、その天皇が出家して仏に仕える身となりました。これにより、仏の偉大さが広く伝わり、以降、神仏習合が加速していくこととなります。

大仏建立の詔

聖武天皇の治世は、実は「天平ロマン」の華やかな印象とはかけ離れた政権の混乱期で、闘争と反乱が繰り返され、疫病や凶作が重なっていました。凶事が起こるたびに聖武天皇は一身に責任を感じ、仏教の力を借りて難局を乗り切ろうとしたと伝えられています。

聖武天皇は全国に国分寺と国分尼寺を建設すること、東大寺を立てて大仏を建立することを命じました。それが、大仏建立の詔です。

私は徳の薄い身であるが、申し訳なくも天皇の位を継ぎ、民を慈しむことに努めてきた。国土の果てまで仏の恵みを受けているが、天下のものが全て仏の恩に俗しているわけではない。そこで三宝さんぽうぶつぽうそう」の力に頼って、天地が安泰となり、永遠の幸せを願う事業を行い、あらゆる生命が栄えることを望む。
・・・
協力したいと願うものはそれを許す。役人はこの造仏のために、民の暮らしを乱し、あるいは無理に物資を取り立ててはならない」(『続日本書紀』聖武天皇の盧遮那仏るしゃなぶつ造営の詔、現代語訳、部分要約)

墾田永年私財法

大仏建立には膨大な資金を要したため、743年に墾田永年私財法を制定して土地の私有を認めて課税することで、その費用の一部を捻出しました。

私有が認められた土地は、管理のための事務所や倉庫がしょうと呼ばれていたことから荘園しょうえんと呼ばれるようになりました。

この制度が導入されたことで公地公民制は崩壊し、荘園制に移行していきました。

和気清麻呂わけのきよまろ

弓削道鏡ゆげのどうきょう

671年、孝謙上皇が近江の保良宮ほらのみやに移ると、病気を治してくれた弓削道鏡ゆげのどうきょうという僧侶と親密な関係となりました。

恵美押勝えみのおしかつの乱

そのただならぬ関係に脅威を抱いた藤原仲麻呂は、淳仁じゅんにん天皇を介して孝謙上皇を諌めたところ、激怒されてしまいました。

そして、危機感を更に強めた藤原仲麻呂は、謀反むほんを企てますが、孝謙上皇に暴かれ、討伐の兵を差し向けられてしまいました。藤原仲麻呂は一族もろとも殺害されてしまいました。

恵美押勝えみのおしかつとは仲麻呂の別名で、淳仁天皇から賜った姓名でした。

その後、孝謙上皇は淳仁天皇を廃位して捕らえ淡路へ流し、孝謙上皇は自らが復位して、称徳天皇となりました。

和気清麻呂わけのきよまろ

称徳天皇が再び天皇となったことで、政治的立場を強めたのは弓削道鏡ゆげのどうきょうでした。そして遂に弓削道教は、天皇になる野望を抱くようになりました。

弓削道鏡の弟と神職らが共謀し、宇佐八幡宮(大分県宇佐市)の「道鏡を天位にけたならば、天下太平ならん」という信託を天皇に奏上させたことが事件の発端でした。

称徳天皇はその真意を確かめるため、宇佐八幡宮に勅使として和気清麻呂を派遣しました。

するとその信託は「我が国は始まって以来、君臣の別は定まっており、臣下が天皇になった例はない。天日嗣あまひつぎには皇統の人を立て、無道の人は排除せよ」といった、全く正反対の内容でした。

穢麻呂きたなまろ

称徳天皇はこの信託は和気清麻呂わけのきよまろの捏造によるものとして、「清麻呂」を「穢麻呂きたなまろ」に改名し、南九州の大隅国に流罪としました。

しかし、称徳天皇は道鏡に皇位を継がせない旨の詔を発して、この事件は決着しました。

皇統の危機を救った和気清麻呂は現在は護王神社ごおうじんじゃ(京都市上京区)に祀られています。幕末、孝明こうめい天皇がその功績を称え「護王大明神」の神号と、最高位となる正一位の神階を宣下されました。

天武系から天智系へ

もう一度、奈良時代の概要図を見てみましょう。

奈良時代の概要図

光仁天皇

称徳天皇は病床で、白壁王しらかべおうを皇位継承者に指名し崩御されました。

白壁王と井上内親王の繋がりのお陰で、天智系から天武系から皇位を簒奪したのではなく、先祖を同じくする2つの系統が1つの家に融合しました。

孝謙・称徳天皇が内乱を避けつつ皇統を守った歴史的意義は極めて大きいことでした。そして、平安時代以降は、皇太子の制度が整い、中継ぎとしての女帝は必要なくなります。

光仁天皇の治世

光仁天皇は称徳天皇の仏教偏重の政治を改め、正徳・道鏡による異常な政治体制からの脱却することに注力しました。

また、和気清麻呂を配流先から都に召喚しました。

桓武かんむ天皇

井上内親王と他戸おさべ親王の不可解な死

772年「巫蠱大逆ふこたいぎゃくの罪」すなわち天皇を呪い殺そうとした嫌疑により、井上内親王は廃后され、続いて他戸おさべ親王も廃されました。

さらに、773年に光仁天皇の姉の難波なにわ内親王が亡くなると、井上廃皇と他戸おさべ廃太子が呪い殺したとの嫌疑がかけられ、幽閉された後、2年後の同じ日に不可解な死を遂げました。

これにより利益を得た人物は、山部やまべ親王です。山部親王には既に藤原南家の藤原吉士ふじわらのきっしが嫁いでいました。

呪詛の真偽は定かではありませんが、藤原氏同士の勢力争いがあったことは間違いないようです。

平安京

784年、天武天皇の都である平城京から、長岡京ながおかきょうへの遷都を実行しました。

794年、和気清麻呂の建議により桓武天皇は建設中の長岡京を捨て、平安京へ遷都しました。

これにより奈良時代は幕を下ろし、鎌倉に幕府が開かれるまでの約400年間続く平安時代が始まります。