日本と中国の関係史 前編(~1912年)

日本と中国の関係史

対中戦略を考える上で、日中の関係が歴史的にどうだったかは、抑えておくべきでしょう。

参考にしたのは、こちらの本『嘘だらけの日中近現代史(倉山満)』です。

中国の歴史(~1636年)

古い時代の王朝の話はワンパターンのようです。以下の記事で記載しています。

中国史、中国人とは何かを知る

清(1636年~1912年)

では、清の時代を見ていきましょう。

清の概要

満州の一部族の長だったヌルハチは金を名乗ります(後金)。

息子のホンタイジは清を建国します。

三代目のフリンの時代に順を駆逐し、順治帝を名乗ります。

続く三代の皇帝は、内政外政で成功し、ウイグル人、チベット人を帝国に組み入れます。

乾隆帝けんりゅうていの末期、乾隆帝が寵愛ちょうあいしたヘシェンは「史上最大の汚職官僚」と言われ、統治に乱れが生じていきます。

嘉慶帝かけいていが継いだ時には国が傾いていました。

道光帝どうこうていの代では、西欧列強に浸食され、次々と領土を失います。

琉球王国は日本か?

通説はこうです。

琉球は日中両属で平和の島だったが、日本が琉球王国から独立を奪った。

琉球王国の史実

1441年(嘉吉元年)、琉球は時の室町幕府将軍・足利義教あしかがよしのりによって、島津氏の所有になります。

1609年(慶長14年)、島津氏が琉球を侵略し実行支配します。

この時代に侵略が許されない行為であるという価値観は存在しません。

琉球王国の尊称を残し、清国への朝貢も許します。

1871年(明治4年)、台湾に漂着した琉球人が殺害されるという事件が起きます。

日本は台湾は清国の領土だから「責任を取れ」と主張します。

清国は「台湾は化外の地(文明の及ばない野蛮人の土地)だから宮廷の政府に責任を取る気はない」と主張します。

1872年(明治5年)、琉球藩を設置します。

1879年(明治12年)、琉球藩は沖縄県となります。

ここで、世界中の誰もが認める、沖縄は日本、台湾は清国という国境画定ができます。

国際法を守る日本、気にしない中国

ポイントは価値観の違いです。

「排他的支配」という価値観が西洋では主流です。

  • 土地が誰のものかははっきりさせなければならない。
  • 他人を許可なく自分の所有する土地に入れてはならない。
  • 許可なく自分の土地に入るものを排除できない者は所有権を主張できない。

というものです。

西洋的な国際法を研究していた日本は、曖昧にしておくことができず、「琉球は日本だ」と宣言します。

つまり、国際法に照らし合わせれば、「琉球は日本」となります。

一方で、中華的世界観から抜け出す気がない中国は、そんなこと気にしません。

日清戦争は侵略戦争か?

通説はこうです。

日清戦争以降の日本は、十年に一度戦争を行う軍国主義国家となった。確かに近代化を果たしたが、それは「内に立憲主義、外に帝国主義」と呼ぶしかなく、アジア侵略の道を歩む。

「侵略」とは

「侵略」とは「他人の土地に勝手に入り、奪うこと」ではありません。

近代の西欧的な国際法における「侵略」とは「挑発されていないのにもかかわらず、先制攻撃をすること」です。

大事なのは「挑発されていないのに」であって、先に手を出したかどうかではありません。

日清戦争の経緯

1885年(明治18年)、天津条約を結びます。

ここで「朝鮮半島に出兵するときは事前に通告すること」という取り決めを行います。

1894年(明治27年)、朝鮮で東学党とうがくとうの乱が発生します。

この反乱に朝鮮は自力で対処できず、清国の軍閥・李鴻章りこうしょうに鎮圧を依頼します。

清国政府の公式見解は「朝鮮はわが属邦である」です。

日本は天津条約に基づいて朝鮮に兵を進めます。

結果、両者とも一歩も引かず、戦争となりました。

日清戦争の目的

当時の日本政府の考えは「朝鮮半島の安定なくして日本の安全保障なし」です。

日清戦争は朝鮮半島から清を追い出すことが目的でした。

陸奥宗光外相

当時の状況をイギリス視点だとこうなります。

  • イギリスにとって、インドより東で目ぼしい国は清だけ、日本など眼中にない。
  • イギリスの世界戦略はロシアの南下阻止。
  • イギリス人は、日本人への偏見や蔑視する感情を持っている。
陸奥はこれらの状況をすべて把握した上で逆手に取り、イギリスに詰め寄ります。

「日本のことを、国際法を守る文明国と認めるならば、不平等条約を改正せよ。もし認めないで不平等条約を維持するならば、我々は文明人ではないということなので、国際法を守るはずがないことになる」

明治27年(1894年)7月16日、イギリスは不平等条約の撤廃を認めました。日英通商航海条約の調印です。

そして、列国もイギリスに倣いました。

小村寿太郎駐清代理大使

日清戦争は客観的に見て、日本の無謀な戦いであると欧州では思われていました。

弱者が強者に勝つためには先制攻撃しかありません。

そこで小村寿太郎駐清代理大使は、日清交渉が決裂確実になった段階で、国旗を降ろして帰国します。
これは宣戦布告と同じ意味です。

これは「もうどうなっても知らないぞ」という示威表明です。

この小村の行為は諸外国に認められ、宣戦布告前に清国に攻撃しても誰も卑怯者呼ばわりなどされませんでした。

下関条約

戦争指導者の伊藤博文首相は戦争の終わらせ方を考えていました。

李鴻章りこうしょうは北京周辺に根を張る軍閥で宮廷にも発言権がありました。

彼の私兵以外に日本と戦う政治家や国民はおりませんでした。

伊藤博文は李鴻章と交渉することを決めていました。

だから、北京攻略が見えてきたところで和議を持ちかけます。

明治28年(1895年)、清国の全権大使李鴻章と日本の全権大使伊藤博文・ 陸奥宗光との間で、下関条約は調印されました。

三国干渉も計算のうち

その後、三国干渉(ロシア・フランス・ドイツ)が日本に遼東半島を返却するよう干渉してきました。

実は陸奥宗光はこれを計算していて、下関条約で可能な限り領土を獲得していました。

だから、遼東半島は返しましたが、台湾は取りました。

清国が台湾より先の琉球に領土的野心を持つという問題は完全消滅です。

続く

日本と中国の関係史 中編(1912年~1945年)

日本と中国の関係史 後編(1945年~現在)