満州事変から国連脱退まで
満州事変から国連脱退まで
昭和8年(1933年)より前、大日本帝国は東アジアで敵なしの軍事大国であり、国連の常任理事国でした。
しかし、満州国承認問題を理由に大日本帝国は国連を脱退します。
それから12年後、大日本帝国は滅びます。
失敗に学ぶ
満州事変は日本を不幸のどん底に陥れた、きっかけとなる事件です。
日本はなぜ道を間違えたのか、それを知ることで初めて、今の日本が見えてくると思います。
参考にした本
『学校では教えられない歴史講義 満州事変(倉山満)』です。
本当に勉強になりました。
満州事変が起こる直前の日本はどんな状況だったか
大日本帝国は強かった
大正11年(1922年)に海軍軍縮条約が結ばれます。
艦艇の保有規模を制限しようというもので、比率は英:米:日:仏:伊=5:5:3:1.75:1.75です。
アメリカは「日本がうちの7割持っていたら負けるから、6割だ」
日本は「アメリカの6割だと負けるから、7割だ」
日米双方ともに、対等だったら日本が勝つ、という前提で議論していました。
憲政の常道
「憲政の常道」は、大正13年(1924年)加藤高明内閣の成立をもって成立します。
二大政党による議院内閣制で、衆議院第一党の総裁が総理大臣になることを「憲政の常道」と呼びます。
総理大臣の自己(病気や暗殺)の場合は、後継総裁が後任総理となります。
それ以外の政変、政策で行き詰った場合は、第二党の総裁に政権が移ります。
「憲政の常道」が確立すると、総理大臣候補は2名に絞られ、陰謀の介在する余地は無くなり、政治は安定します。失政があった場合は、政権が交代します。
イギリス人が数百年かけて辿り着いた境地に、日本人は明治維新以来50年で追いついてしまいました。
政治、外交、経済、全て悪い方向に
しかし、現実の二大政党は、汚職とスキャンダルと政変に明け暮れていました。
議会で汚職とスキャンダルの暴露合戦が繰り広げられ、マスコミはさらにそれを煽りました。
外交面では、昭和2年(1927年)に南京事件が発生します。
幣原喜重郎外相の蒋介石への甘い対応から、国内で幣原軟弱外交批判が沸騰します。
経済面では「戦後不況」「震災不況」「金融恐慌」という慢性的な不況に10年も苦しめられていました。
そんな中、昭和4年(1929年)井上準之助蔵相はデフレ政策を推し進め、景気はさらに悪化しました。
荒廃していく民衆の心
これで民衆の心が荒まないわけがないですね。
- 汚職やスキャンダルで、政治への不信が高まる
- 外務省の軟弱外交に対する不満が高まる
- 経済的困窮により、東北では少女の身売りや餓死者も出るようになる
このように、大衆の不満と怒りは大きくなっていきました。
満州事変は起こるべくして起こる
大衆の怒りの矛先は満州に向けられます。
排日案件が500件
昭和5年(1930年)に数えられた排日案件は500件だったそうです。
邦人居住権侵害、商業・工業・農業・林業・鉱業の妨害、反日教科書などの侮日行為、朝鮮人を中心とした邦人の生命および財産への侵害などが挙げられます。
どれか1個でもあれば、開戦自由にして良いものです。
満蒙は日本の生命線である
満州青年連盟といった現地団体の派遣した人たちが、日本中を演説して回りました。
満州が大変ではないか、幣原は何をやっているのか、という批判と怒りに満ちた声が日本中に溢れます。
満蒙は日本の生命線である、は当時の大流行語となりました。
強すぎる政党内閣
時の大蔵大臣だった井上準之助は、その強い信念から世論の支持を集めます。
そして、総選挙で民正党は大勝利し、大蔵省主計局が主役となる時代が到来します。
井上率いる大蔵省は徹底的な緊縮財政を行い、陸海軍と内務省は「見せしめ」となりました。
もはや、内地では体制転覆することができない、ならば、外地でやろう、というのが満州事変でした。
役職 | 名前 | 備考 |
---|---|---|
内閣総理大臣 | 若槻礼次郎 | 優柔不断、関東軍の脱法行為を追認してしまう |
外務大臣 | 幣原喜重郎 | 協調外交、支那人にナメられ、国内では軟弱外交と批判される |
大蔵大臣 | 井上準之助 | 金本位制に戻し、緊縮財政を行い、日本経済をどん底に突き落とした |
内務大臣 | 安達謙藏 | 協力内閣を提唱、憲政の常道を揺るがすきっかけを作った |
満州事変勃発
まず、関東軍が始めます。
芸術的な自作自演の柳条湖事件
昭和6年(1931年)9月18日夜、関東軍が満州鉄道の線路を爆破して、中華民国の犯行だと発表しました。
何をしたかと言うと、満鉄の線路のレールを片方だけ爆破しました。
超高速で走ってくる列車が、レールが切れているせいで転覆するように、火薬量などを全て調整していました。
日本人被害者が出ないように全て計算されていました。
そして、自衛のためだとして、関東軍を出動させました。
石原莞爾の思惑
首謀者である関東軍参謀の石原莞爾は、満蒙問題を解決し、政党内閣、幣原外交を葬り去ろうとしていました。
現地での戦い方、戦術は優れていましたが、頭の中で描いていた戦略は褒められたものではありません。
これが、軍部の暴走と言われる所以です。
統帥権干犯問題
統帥権干犯問題
昭和6年(1931年)9月21日、林銃十郎は居留民保護を目的に、朝鮮軍を満州へ出動させます。
天皇陛下の軍を国外出兵させるためには、陛下から勅命を受ける「奉勅」の手続きを踏まなければなりません。
これを独断で行えば、統帥権干犯です。
昭和天皇は、石井菊次郎が指摘した通り、朝鮮軍の行動は統帥権干犯ではないか、と疑問を口にされました。
道を誤る その1
国内の新聞は林を越境将軍などと呼び、大絶賛しました。
閣議では、ひとりを除いて全閣僚が内閣陸相の南次郎を攻撃しました。
本来、統帥権干犯は軍法違反なので、司令官の林は死刑です。
しかし、若槻礼次郎首相は「居留民保護をしないわけにはいくまい」として、この問題を予算までつけて合法と判定しました。
秩序の崩壊
これは総理大臣による統治行為と呼ぶべきものです。
確かに、居留民保護は大事です。
しかし、現場で軍事合理性があると判断すれば、政府や軍上層部の決定など無視して良いとなってしまえば、秩序が崩壊します。
結果、関東軍が脱法し、政府が追認するという行為が繰り返されます。
どたばた若槻内閣
満州事変当時、政治家や官僚の腐敗、軟弱外交への不満、経済的困窮、日本国民の気持ちは荒んでいました。
そんなとき、若い軍人さんなら世の中を正してくれる、そんな期待で世論は満州事変支持一色となりました。
この時期の朝日新聞は、満州事変で日本軍が憎き張学良相手に全戦全勝、血湧き、肉躍るような感覚です。
しかし、世界から見れば、日本政府と関東軍の行動が毎度のごとく違うので、日本の当事者能力が疑われてしまいます。
揺れる若槻内閣
国際世論と関東軍の板挟みになった日本政府は混乱してしまいます。
混乱の原因は若槻礼次郎の優柔不断です。
安達謙蔵内相は、若槻首相に政友会と連立を組む「協力内閣」を提案します。
昭和6年(1931年)11月17日、井上準之助蔵相の宣言により、その流れは変わりました。
「協力内閣は軍部に媚びるものである。政策が違う野党と連立して何をしようというのか。与党は過半数を持っているのだから、今の体裁で頑張ればいい」
正論です。
国際社会の信用を取り戻すために関東軍を統制する方針で内閣は一致します。
委任命令
金谷範三参謀総長は委任命令という手段を使いました。
天皇陛下の御名で、錦州への進撃を禁止する、という断固たる命令を下します。
昭和6年(1931年)11月29日、関東軍は錦州攻略を中止します。
国際連盟で日本の主張が認められる
これを受けて、国際連盟では妥協が図られます。
満州での事態を調査するため、調査団(後のリットン調査団)が結成されました。
同時に、日本に満州における匪賊(ギャング)討伐権が認められました。
張学良も、その父の張作霖も匪賊(ギャング)です。
その討伐権が認められるということは、日本の主張が概ね認められたということです。
運命の分かれ道
昭和6年(1931年)12月10日朝、"ラジオ" にて、ジュネーブからの吉報が届きました。
昭和6年(1931年)12月11日午後、"新聞" にて、「日本外交勝利」の文字が躍っていました。
昭和6年(1931年)12月11日、若槻内閣は総辞職を決めてしまいます。
この吉報があと1日早く届いていれば、風向きも変わり、若槻内閣は持ちこたえたかもしれません。
たった1日で政局が変わってしまった、まさに運命の分かれた瞬間でした。
協力内閣を画策し、引きこもる安達謙蔵
昭和6年(1931年)11月21日、安達内相は勝手に協力内閣樹立の声明を出してしまいます。
また、安達側近で民政党顧問の富田幸次郎は、久原房之助政友会幹事長と協力内閣樹立の覚書を交わしていました。
若槻首相は首謀者であろう安達を問い詰めますが、安達は家に帰り引きこもってしまいます。
普通に大人のすることではないです。
道を誤る その2
このとき、若槻は安達内相の諭旨免官を奏請すればよかったのです。
自らの責任で陰謀による政変を認めないとの意思を示せば、誰も止められなかったでしょう。
昭和6年(1931年)12月11日、若槻は内閣総辞職を決めてしまいます。
元老に委ねられた
これまで西園寺は「憲政の常道」の慣例を積み重ねてきました。
- 陰謀による政変は認めない
- 政策の行き詰まりには政権交代
しかし、このときは判断が難しい状況でした。
「憲政の常道」の解釈は元老に委ねられたのでした。
西園寺は若槻の辞表に、元老の権威にすがって政権を存続させようとしている、という魂胆を見ていました。
犬養内閣の成立
昭和6年(1931年)12月12日、西園寺公望は犬養毅を私邸に呼び、問いました。
単独で行くか、協力で行くか。
犬養は「単独」と即答します。
組閣の在り方について、元老が決めるのが良いか、次期首相が自分で責任を持つのが良いのか、そういう問答でした。
昭和6年(1931年)12月12日、犬養毅に大命は降下しました。
犬養内閣の閣僚人事
この後の話が分かるよう、ざっと見ていきましょう。
役職 | 名前 | 備考 |
---|---|---|
内閣総理大臣 | 犬養毅 | 野党第一党の党首として、一度も協力内閣に与していません |
外務大臣 | 犬養毅 | 昭和7年(1932年)1月14日まで |
外務大臣 | 芳沢謙吉 | 犬養の娘婿、協調外交、中華民国出兵の正当性を主張 |
大蔵大臣 | 高橋是清 | 金解禁の即日停止、日本経済を復活させる |
内務大臣 | 鈴木喜三郎 | 選挙で負けても天皇陛下の信任で内閣があるのだから辞めなくていい |
陸軍大臣 | 荒木貞夫 | 皇道派と呼ばれるようになります |
海軍大臣 | 大角岑生 | 上海事変、大角はプライドを捨てて陸軍に協力を要請 |
高橋財政
昭和6年(1931年)12月13日、組閣が完了します。
大蔵相に就任した高橋是清は即日、金解禁を停止します。
日本の景気は即座に回復していきました。
錦州への攻撃開始
昭和6年(1931年)12月23日、犬養内閣発足から2週間足らずで、錦州への攻撃が開始されます。
昭和7年(1932年)1月3日、関東軍は錦州を占領します。
スチムソン・ドクトリン
昭和7年(1932年)1月7日、アメリカのヘンリー・スチムソン国務長官が「満州での現状変更は認めない」という不承認宣言を出します。
要はアメリカの国益に反するものはすべて認めないという内容のものです。
昭和16年(1941年)の日米開戦まで、このスチムソン・ドクトリンをアメリカは主張し続けることになります。
桜田門事件
昭和7年(1932年)1月8日、天皇暗殺未遂事件が起きます。
天皇ご乗車の車ではなく、同行していた車にかすっただけで、事なきを得ました。
問題は「民国日報」という中国国民党の機関紙の報道でした。
「不幸にして僅かに副車を炸く」
不幸にして日本の天皇を殺せなった、と報じたのです。
これ1つで立派な開戦自由となります。
上海事変の勃発
桜田門事件があったので、上海事変は起こるべくして起こりました。
上海事変勃発
昭和7年(1932年)1月28日、上海事変が始まります。
血盟団のテロ
昭和7年(1932年)2月9日、井上準之助元大蔵相は血盟団というテロリストの銃弾に倒れました。
3月には三井財閥総帥の団琢磨を暗殺します。
井上は財政不況の元凶、団はドル買いで私欲を貪ったというのが、彼らの言い分でした。
しかし、当時の世論はテロには寛容でした。狂った時代です。
芳沢外交
昭和7年(1932年)2月23日、日本と中華民国を除いた国際連盟理事会が中止勧告をします。
- 原因は中華民国の反日運動で、我が国は被害者である
- 中華民国政府は、取り締まるどころか煽っている
- 現に各地で暴動事件が起きて日本人が被害者になっている
中華民国政府が排日運動の黒幕である「民国日報不敬事件」を証拠に付き付け、「日本人居留民に死ねというのか」とばかりに、出兵の正当性を訴えました。
これに対して、国際連盟は何もできません。
満州国を建国
昭和7年(1932年)3月1日、関東軍は溥儀に満州国を建国させます。
まさに日本の傀儡国家です。
英領事館にて停戦協定に調印
戦勝国日本の主導で、イギリスが上海事変を仲介することとなりました。
昭和7年(1932年)3月24日、停戦交渉が開始しました。
芳沢外務大臣は松岡洋右を特使として派遣します。
昭和7年(1932年5月5日、英領事館にて停戦協定は調印されました。
「憲政の常道」の破棄
上海事変は日本有利に終了しました。
政治主導で陸海軍が共同し、戦闘の勝利を外交の勝利に結びつけた戦いでした。
そして、大日本帝国において、その最後となります。
五・一五事件
昭和7年(1932年)5月15日、内閣総理大臣犬養毅を殺害する事件(五・一五事件)が起こりました。
世論はそれを非難するどころか、逆に同情が殺到し、暗殺を賛美する有様でした。
中には正論を述べる者もいましたが、多勢に無勢です。
道を誤る その3
「憲政の常道」が健在であるならば、暗殺による政変は起きませんでした。
しかし、最後の元老、西園寺公望は悩んだ末、斎藤実海軍大将を後継首班に奏薦しました。
政党総裁ではない斎藤が首班で、「憲政の常道」は自動的に破棄されました。
世論に媚びる政治家
いつの時代も世論に媚びる政治家が出てくると、良いことがありません。
世論に媚びる内閣の誕生
自身の手で解散総選挙を闘い、多数の信任を得た内閣は強固です。
政党内閣であれば、次の選挙まで世論を無視した政治もできました。
しかし、この時の斎藤内閣は議会に基礎を置かない内閣ですから、世論に従わざるを得ませんでした。
史上最低の外務大臣、内田康哉の焦土演説
その中で最も媚びたのが内田康哉でした。
昭和7年(1932年)8月25日、第63回臨時帝国議会で外交方針の質問に対して、このように答弁しました。
我国民は唯今森君の言われました通りに、この問題のためには所謂挙国一致、国を焦土にしてもこの主張を徹すことに於ては一歩も譲らないと云う決心を持って居ると言わなければならぬ……。
つまり、こう言っています。
- 満洲国は承認する
- 世界中を敵に回す覚悟である
- 国を焦土としてでもやり抜く覚悟である
なぜ、満州国なんかのために、日本の国土を焦土にしなければいけないのか、意味が分かりません。
満州事変の舞台は国連へ
リットン調査団の報告書が出され、満州事変の舞台は、国際連盟臨時総会の場へと移ります。
大日本帝国からは、上海事変の成功を理由に、松岡洋右が全件代理に任命されます。
リットン・レポートは日本の勝利
昭和7年(1932年)10月1日、リットン調査団が報告書を出しました。
その内容は「満州国承認以外はすべて日本の権益を認める」でした。
満州国さえ否定し、形式上中華民国の主権だけ残しておけば、あとは日本が好きにしていいのです。
どう読んでも日本の勝利です。
それに対する我が国の反応は "激昂" でした
驚くことに、当時の世論は真逆の反応をしています。
新聞がリットン・レポートの気に入らない部分を切り抜き、民衆が煽られ激昂するという感じです。
当時の日本人は正気を失っていた、と言わざるを得ません。
松岡洋右が挽回する
昭和7年(1932年)12月8日、松岡は国際連盟総会で「十字架上の日本」と呼ばれる演説を行いました。
この演説によりイギリスを味方につけ、孤立する日本を救い出す一歩手前まで挽回していました。
なお、自分をキリストになぞらえるなど白人諸国の反感を買っただけだ、と戦後の日本外交史でこの演説は批判されています。
大日本帝国、国際連盟を脱退する
陸軍と外相の内田が「ぶっ壊す!」
国連総会で満州国の形式的否定で妥協しようとしているときに、溥儀の申し出を受け、陸軍は熱河へ侵攻する準備を進め、内田はそれを止めません。
昭和8年(1933年)1月1日、関東軍は熱河へ侵攻します。
世論は、もちろんこれを支持します。
大日本帝国、国際連盟を脱退する
これで挽回は不可能です。
昭和8年(1933年)2月24日、松岡洋右全件委員は国際連盟の脱退を表明します。
感想
関東軍が先走り、政府が追認し、国際協調とは真逆を進んでいく。
新聞が煽り、民衆は賛美する。
それと歩調を合わせるように「憲政の常道」は崩れていく。
すべては、目先の事象、一時の感情に、国民も政府も振り回されてしまった結果だと思います。
令和の時代になっても、日本はそれを繰り返してはいないでしょうか。
今こそ、現状を冷静に分析し正しい政策を考える民間シンクタンク、実行力のある政治家、それらを後押しする世論が必要ですね。
大変、勉強になりました。