高橋是清自伝(高橋是清、上塚司)

高橋是清たかはしこれきよとは

高橋是清(1854年~1936年)と言えば、日本の特許制度も作った人物で、昭和大恐慌から日本を救った大蔵大臣としても有名です。

1904年(明治37年)の日露戦争では、戦費調達のためイギリスで奮闘しました。『高橋是清自伝(下)』では、当時の生々しい様子が詳細に記述されています。

このような人物がいたからこそ、今の日本があるのだと思います。

高橋是清自伝(上)

上巻の内容は、高橋是清の幼少の頃から、南米ペルーに渡って鉱山事業に失敗するところまでが記されています。

当時の雰囲気も感じられて面白いですが、私は高橋是清の人間性が伝わってくるエピソードに感銘を受けました。

渡米の前に、お婆さんがくれたもの

慶応三年(1867年)の春、高橋是清は当時14歳でした。

慶応三年は徳川慶喜が政権を朝廷に返す大政奉還が行われた年でした。まさに、明治維新が始まった頃です。

高橋是清はアメリカに渡米することになるのですが、その時にお婆さんから託されたものがなんと "一振りの短刀" でした。

お婆さんは江戸時代生まれの女性でした。別れの際、自分の孫にこんな言葉を授けるとは、そういう時代であったのだなと感銘を受けました。

「これは祖母が心からの餞別せんべつです。これは決して人をそこねるためのものではありません。男は名を惜しむことが第一だ。義のためや、恥を掻いたら、死なねばならぬことがあるかも知れぬ、その万一のために授けるのです」

こういう立派な女性に育ててもらった幼少時代があるから、高橋是清のような立派な人物が育てられたのだと私は思います。

ペルーの銀山事業で失敗

高橋是清は南米のペルーに渡って銀山事業を始めようとしました。しかし、現地に行って調べてみると全然取れない鉱山であることが判明します。

この時、鉱山を世話してくれていた者が他の者に転売しようかと話を持ち掛けて来たそうです。その際に、高橋是清が放った言葉が素晴らしかったです。

我々が見損なって買込み、実地にやって見て悪かったものを、他に転売して自己の利を計ることは不道徳の極みであるとして断然断った。

ダメな鉱山を他の誰かに売るのは不道徳の極みだとして断ったのでした。このエピソードにも高橋是清の人柄が出ていますね。

上官のいうことでも、正しくないと思うたときは

鉱山事業の失敗の後、友人らが高橋是清の職を探してくれたそうです。北海道庁とか某県知事など、なかなかの役職ばかりです。でも、高橋是清はこれを断ってしまいます。

その理由がこちらです。

これまで私が官途についたのは衣食のためにしたのではない。今日まではいつでも官を辞して差支えないだけの用意があったのである。従って上官のいうことでももし間違っていて正しくないと思うたときは、敢然これと議論して憚るところがなかった。

お金に余裕のある時しか士官しない、なぜなら上官が間違っていた時に逆らえないではないか。というのですから、男前だなと思いました。

高橋是清自伝(下)

私は、この下巻に記された数々のエピソードに、深く感銘を受けました。

正論を通す意志の強さ

渋沢栄一を議長とする商工会議所の代表者の集まりにて、渋沢栄一に堂々と反対意見を述べました。

「政府の財政膨脹を防ぎ、かつその反省を促すことは誠に結構なことである。しかしながらいやしくも実業界の首脳部ともいうべき人々が、一斉に起って政府に反省を求めかつその効果あらしめんとするには、まずもって自分自ら同様の非難を受けないようにせねばならぬ。しかるに、この数年来の実業界の情勢を調べて見るに、民間投資の膨脹は政費の膨脹よりもさらに甚だしい。 ・・・中略。もし我々が今政府に対し渋沢会頭の演説の趣旨によって、反省を促したる場合、『君たちのお手元はどうだ』と反問されたら何と答える。西洋の諺に『人の汚れているのを笑う者はまずもって己れの衣類の汚れを落すべし』とあるが、私は政府に対し、反省を促す前に、実業家自身の反省を要する点があるように思うから、渋沢会頭の意見に直ちに賛成するわけにはいかぬ」

全会一致で決議されることが前もって段取りされている場で、このように堂々と正論で反対意見を述べたことは、尊敬に値します。

結果としてこの決議は表に出ることなく終わったそうです。

高橋是清の国家感

イギリスにて日露戦争の戦費調達のため、現地の銀行家と話をする際、日本という国がどういう国であるかを知ってもらうため、以下のようなことを話していたそうです。

すなわちこのたびの戦争は、日本としては国家生存のため、自衛上已むを得ずして起ったのであって、日本国民は二千五百年来、上に戴き来った万世一系の皇室を中心とし、老若男女結束して一団となり、最後の一人まで戦わざれば已まぬ覚悟であるというような意味を雑談し、またわが武士道の話や国家組織の単位が家族の上にあることなどを説明した。

日本は万世一系の皇室を中心とした国である、国家組織の単位が家族の上にある、そして、日露戦争は自衛のための戦争であると語っていました。

シフ氏は、なぜ日本公債を自ら進んで引き受けたのか

高橋是清は、最初に1億円の資金調達に成功するのですが、そのうちの5千万円はイギリスの銀行家から、残りの5千万円はクーンロエプ商会の首席代表者であるジェイコブ・シフ氏から調達することに成功します。

なぜ、シフ氏は自ら進んで5千万円の日本公債引き受けに応じたのでしょうか。

ロシヤ帝政時代ことに日露戦争前には、ロシヤにおけるユダヤ人は、甚だしき虐待を受け、官公吏に採用せられざるはもちろん、国内の旅行すら自由に出来ず、圧制その極に達しておった。ゆえに、他国にあるユダヤ人の有志は、自分らの同族たるロシヤのユダヤ人を、その苦境から救わねばならぬと、種々物質的に助力するとともに直接ロシヤ政府に対してもいろいろと運動を試みた。

米国にいるたくさんのユダヤ人の会長をしていたのが、このシス氏であったのです。つまり、反ユダヤのロシアに憤慨していたというのが日本への融資を進んで引き受けた理由とされています。

日露戦争の終わり方を考えていた

高橋是清は日露戦争の終わり方を見通していました。時の桂太郎首相から、日露戦争の戦費調達に関して「戦いを負けても出来るか」と問われ、このように答えています。

「それや同じ敗けても敗けよう次第です。戦いに敗けてる間に出来すというわけには行きません、しかし敗けたからとて、どっかで踏み止どまる時がありましょう。その踏み止まった時に、公債談判の機会が来るのです。もちろんその場合条件は悪くなります、つまり敗け方に依るので、まさか一気に朝鮮まで追いまくられることもありますまい」

高橋是清の凄いところは、日露戦争に負けた場合も想定して動いていたという事です。

大東亜戦争の時の政府に高橋是清のような人物がいたならば、きっと東京が空襲されることも、広島と長崎に原爆を落とされることも、戦後GHQに占領されることもなかったでしょう。