第一次世界大戦

第一次世界大戦

今回は、第一次世界大戦について見ていきます。

参考にしたのは『ウッドロー・ウィルソン(倉山満)』です。

3つのトピック

私は以下の3つのトピックについて注目しました。

  • 石井菊次郎の功績
  • ウィルソンは何をしたのか
  • パリ講和会議における日本の罪

では、それぞれ詳しく見ていきましょう。

石井菊次郎の功績

日清戦争で下関条約を結ばせた陸奥宗光、日露戦争でポーツマス条約に持ち込んだ小村寿太郎に勝るとも劣らなぬ、日本を代表する外交家です。

大正4年(1914年)7月28日、第一次世界大戦は始まりますが、その少し前の話からです。

ロンドン宣言への加入

大正4年(1914年)9月5日、英仏露三国は単独不講和を宣言したロンドン宣言に調印しました。

「最後まで一緒に戦うぞ」という宣言です。

石井はこれに加入するよう当初から主張しますが、当時の日本政府はグダグダで、外相の加藤高明も聞く耳を持ちませんでした。

大正4年(1915年)8月4日、大隈重信の改造内閣が成立します。

大正4年(1915年)10月13日、石井菊次郎は外務大臣へ就任します。

石井は就任するやロンドン宣言への加入を実現します。

そして日本はロンドン宣言を最後まで守り連合国を支えます。

「血を同盟の証にする」です。

なぜ、日本はヴェルサイユ会議に大国として呼ばれたのか

地中海にて、帝国海軍の将兵は命懸けで戦い、五十九名が戦死しました。

連合国は感謝しない訳にはいきません。

日本は得るものを得たので、いつ戦争から抜け出しても構わない状況でした。

それでも最後まで一緒に命懸けで戦ったのです。

最後まで戦う姿勢を示したのは、これ以上ないほどの外交メッセージになりました。

だから、日本はヴェルサイユ会議に大国として呼ばれたのです。

大正6年(1917年)石井・ランシング協定

セオドア・ルーズベルト政権の時に、日米が互いの権益を確認しあった「高平・ルート協定」は空文化していました。

「高平・ルート協定」とは、太平洋における日米の勢力圏維持と、中国大陸における日本の権益を認めるという内容の協定です。

そこで石井は、日米の摩擦を抑えるため「石井・ランシング協定」を結びます。

これは「高平・ルート協定」の再確認であり、日本側の中国大陸における利権を米国に認めさせました。

何をしでかすか分からないウィルソン率いるアメリカに対して、この協定は外交上の重要カードとなりえます。

アメリカからこのような言質を取ってきた石井は称えられてしかるべきです。

ウィルソンは何をしたのか

舞台は第一次世界大戦(1914年~1918年)の末期からです。

ウィルソンがレーニンに何をしたのか、に注目してみていきます。

10月革命

1917年11月7日、レーニンの軍事クーデーターがロシアで起こりました。

翌8日にレーニンはソビエト政府の名で「平和に関する布告」を発しました。

レーニンは国際法を守る気などありません。

帝政ロシアが結んだ秘密契約を片っ端から暴露して、各国で革命が起こることを期待していました。

ブレスト・リトフスク条約

レーニンはロンドン宣言から抜けようと画策します。

敵国のドイツと交渉し、1918年3月にブレスト・リトフスク条約を結びます。

バルト地方のリトアニア全て、白ロシア(ベラルーシ)、ウクライナの大半から、南はグルジア(現ジョージア)の黒海沿岸まで、広範囲の旧領を失います。

はっきり言えば、レーニンはロシアの売国奴です。

結果、ドイツ軍は西側の英仏の戦う西部戦線へ兵力を集中できる展開となりました。

英仏が日米に出兵を要請

共産主義者が革命を起こしたと聞くと、英仏の教養人は即座にフランス革命を連想します。

危険な破壊思想を世界中に輸出しにきます。

ならば周辺諸国が協力して叩き潰すのみ。

そこで、英仏は日米に派兵協力を要請していました。

ウィルソンの取った行動

1918年1月、ウィルソンはフランスからの派兵協力要請を断り、日本政府の派兵に対して反対の警告を送ります。

大日本帝国が本気になって東から攻め込んでいれば、西から猛攻を加えている英仏ははるかに楽な戦い方ができたでしょう。

共産主義者の政府を滅ぼすのも現実的でした。

しかし、ウィルソンはレーニンに助け舟を出し、それに追随したのが日本でした。

結果、英仏は仕方なく、ポーランド、バルト三国、フィンランドを奪ったところで引き返します。

十四カ条の平和原則

1918年に入ると「勝利なき平和」の趣旨を繰り返す声明を出してほしいとの懇願がヨーロッパから届きます。

それに応じて、ウィルソンが作ったのが「十四カ条の平和原則」でした。

十四カ条の平和原則の中身

「十四カ条の平和原則」をざっとまとめると「レーニンを殺すな」です。

この部分の解説については長くなりますので本書『ウッドロー・ウィルソン』第四章をご参照ください。

この当時、世界はレーニンやウィルソンの危険性に気づいていませんでした。

あまりにも第一次世界大戦が悲惨で、レーニンが登場し、ウィルソンが出てきて、良いことを言っているし、せめてこの戦争が止められるなら、と受け止める人が大勢でした。

パリ講和会議における日本の罪

1918年11月11日、ドイツは仮休戦協定に調印します。

そして、1918年12月4日、パリ講和会議出席のため、ウィルソンを乗せた船がニューヨーク港を出発ます。

ヨーロッパではウィルソンは救世主として歓迎されました。

パリ講和会議のメンバー

登場人物は日英仏伊米の5か国です。

イギリスとフランスは紛争当事者なのでしがらみだらけです。

イタリアは名ばかり大国で、ただの数合わせです。

アメリカはウィルソンが会議を仕切ろうと乗り込んできています。

すると、この状況をまとめられるのは日本しかありません。

あの人しかいない

世界の外交官の誰もが「あの人が来る」と信じていました。

石井菊次郎です。

ところがヨーロッパの人たちの期待を裏切って、日本が送ったのは、形式上の全権は西園寺公望元首相、実質的な代表は牧野伸顕元外相でした。

サイレント・パートナーの日本

西園寺は、講和会議に行くのに妾を連れて、ゆるゆると遅刻して行きます。

原首相と内田外相は、日本と関係のない話だったら黙っていろと訓令していました。

このため、日本代表団は講和会議で「サイレント・パートナー」と言われるほどの存在感しかありません。

ヨーロッパ各国代表からは、日本は自分のことしか考えない酷い奴だと思われます。

石井菊次郎がパリ講和会議に出ていれば

彼が行っていればおそらく歴史は大きく変わっていたでしょう。

残念ながら、現実は日本もイタリアも大事な話から外され、英米仏の三大国交渉になってしまいました。

日本人として何と屈辱ですが、大事な時に何も言わずに黙っているのですから、仕方ありません。

日本の人種平等条項挿入の意味

ここまでの流れを見ると、日本の人種差別撤廃の訴えは非常に虚しいものだと感じます。

なぜなら、本題はドイツとの講和条件であり、日本はその本題について何も発言しないのですから。

人種差別撤廃の訴えなど、単なる自己満足です。

まとめ

第一次世界大戦はヨーロッパが戦場となる総力戦でした。

世界は戦後の対処を間違え、バルカン半島、中東を混乱に突き落とし、ヒトラーを生み出し、レーニンを生き残らせてしまいました。

その中心的役割を果たしたのが、ウッドロー・ウィルソンであり、ヴェルサイユ会議でサイレントパートナーを決め込んだ大日本帝国でした。

ウィルソンの教科書的な評価

ウィルソンはノーベル平和賞を受賞しています。

現代の日本でウィルソンを語る時、自由、民主主義、国際主義、平和というキーワードで語られます。

このような日本の通説は東大法学部、北岡伸一東大名誉教授による影響が大きいそうです。

どちらの説が正しいか、判断するのは自分自身です。

そして、今

レーニンが作ったコミンテルン中国支部は、中国共産党として君臨しています。

その覇権主義は世界を二分しており、今後の世界秩序の覇権をめぐって米国と戦っています。

かつて大国だった大日本帝国は亡くなり、日本というただの地名となり、米中の代理戦争の場として機能しています。

日本が一等国としての地位を取り戻し、米中の覇権争いに一石を投じられるようになる日は来るのでしょうか。